2020年11月19日、香華殿札幌東斎場においてめもるホールディングスの新たな試みとなる「法話の会」を開催し、浄土真宗本願寺派 浄光寺 青山住職にお話をしていただきました。30分ほどの時間があっという間に感じられるような大変興味深いお話をお聞きすることができ、予想以上に有意義な会となりました。青山住職の法話を今回から3回に渡ってこちらでご紹介致します。
浄土真宗の教えとは
私は札幌市北区新琴似にあります「浄光寺」という浄土真宗本願寺派のお寺の住職をしております、青山直樹と申します。
まずうちのお寺は浄土真宗本願寺派のお寺です。仏教の中でも日本全国的に見て多い宗派が曹洞宗と浄土真宗ですが、その浄土真宗のお寺です。浄土真宗は宗派がたくさん分かれていまして、うちは本願寺派といってお西、京都の西本願寺を本山とするお寺なんですが、大きいところでいいますと大谷派、お東さんとか、小さいところだとあと8つくらいあります。「真宗連合」で検索してもらうと10派の本山の場所やそれぞれの相違点が紹介されていますので、ご興味ある方は見てみてください。
お寺っていったい何をするところか、浄土真宗ってどんな教えかというと、浄土真宗の場合は親鸞聖人というお方が今から800年くらい前におられまして、その方は阿弥陀仏の本願の救いというものを明らかにしてくださいました。よく、お通夜・お葬儀の時に、阿弥陀様の掛け軸がかかっているんですけど、浄土真宗の僧侶は故人様のお写真に手を合わせているのではなく、あくまでも阿弥陀様に手を合わせております。
親鸞聖人が明らかにしてくださった阿弥陀仏の救いがどんな救いかというと、「阿弥陀様は私たちを必す苦しみの無い、別れの無いお浄土という世界へ生まれさせてくださる」というものです。私たち、日常生活で生きていたら苦しみが必ずあります。お釈迦様が「生老病死」と言う風に4つの苦しみをお示し下さいました。生まれてくるときの苦しみ、老いる苦しみ、病になる苦しみ、そして死ぬ苦しみ。それはどんなに地位の高い人であっても避けることができない苦しみであるとお示し下さっているんですけど、その「生老病死」の解決、どうしたら良いかということで、それは無明の世界から知恵をいただいて真実に生きるということが何よりも苦しみを解決する方法であるということをお釈迦様はお示し下さっています。
人間は凡夫(ぼんぶ)であり恥ずかしい存在である
ここで、浄土真宗と他宗派の明らかな違いについてお話しようと思います。親鸞聖人は私たち人間のことを凡夫(ぼんぶ)とおっしゃるんです。私たちはどんな人であっても凡夫であるとおっしゃるんです。たとえ親鸞聖人であろうが、総理大臣であろうが、どんな人であっても凡夫であると。その凡夫とは一体何か。親鸞聖人は書物の中でこうおっしゃっています。
「凡夫とは無明、煩悩、われらが身に満ち満ちて、欲も多く、怒り、腹立ち、嫉み、妬む心多く暇なくして、臨終の一念に至るまでとどまらず消えず、絶えず」
とおっしゃるんです。つまり、私たちは死ぬまで煩悩、欲や怒りや腹立ち嫉み、そういったものを抱えながら生きていく存在であると、親鸞聖人はお示し下さっているわけです。臨終の一念に至るまでとどまらず、消えず、絶えず、その煩悩が無くなりませんとおっしゃっているんです。
そして、そのような私たちを「必ず救う、われに任せよ」と常に見守って下さっているお方がご本尊、阿弥陀様ですよとお示し下さっているんです。
私たちなかなか日常生活の中で自分が凡夫であるとは気づきにくいですね。どちらかというと勉強をしたり社会的に高い地位についたりしたら、自分こそは特別だ、自分こそは死なない、自分こそは老いない、といった感覚に陥りがちなんですけど、親鸞聖人は誰もが死ぬまで凡夫であるとおっしゃっています。例えば私は僧侶ですけれども、僧侶でも凡夫であるとおっしゃるんですね。
私はこの前地方に布教に行きました。地方に行くとたいていホテルに泊めていただきます。ホテルの朝食はバイキングが多いですね。バイキングの時ってどうしても多くとりませんか?あれも欲しいこれも欲しいとなってたくさん取ってしまいます。普通だったら、自分でお金を払う場合だったら何品頼むかというと、コーヒー下さい、紅茶下さいとか1品しか頼まないと思うんですけど、バイキングの時は飲み物も飲み放題です。すると、コーヒーを飲んだり、牛乳を飲んだり、オレンジジュースを飲んだり、普段飲まない物もたくさん飲んで、少しでももとをとってやろうと、そういった気持ちでたくさん食べたり飲んだりするわけです。それが煩悩というものなんですね。欲望です。
あとは怒り、腹立ち。私釧路の方に行っていたんですけど、道東自動車道が途中から1車線になるんですね。せっかく高速にのっているのに前に遅い車がいたら、怒りのような感情がわいてくるんですね。道南に行く時も室蘭インターから向こうに行ったら1車線になっちゃうんです。そうしたら、遅い車が時々いるんですよ。下走ってる方が早いんじゃないかと思うんですけど、そういう車がいたら、私僧侶なんですけど、僧侶でもついつい怒りがわいてきてしまって、それが凡夫であると。そういう私たちを阿弥陀様は「必ず救う、われに任せよ」と見守って下さっている、働き続けてくださっているというのを明らかにしてくださったのが親鸞聖人です。浄土真宗の場合は厳しい修行をして救われていくという教えではなくて、そのままの自分で救われていくというのが教えです。皆さん一度は耳にしたことがあるかもしれませんけれど、親鸞聖人の教えの中で「悪人正機」(あくにんしょうき)という、悪人こそが救われるという教えがあるんですよね。そしたら、どんな悪いことをしても救われるのか、と思っていたらそれはちょっとまずいんです。
親鸞聖人は誰もが救われる教えが浄土真宗の教えと言う風に明らかにして下さいましたが、先ほど言いました「凡夫と言う存在は恥ずかしい存在だということを自覚しなくちゃいけないんですよ」ということもお示し下さっています。凡夫ということに開き直って、凡夫であっても、欲望が死ぬまで無くならなくても阿弥陀様に救われていくんだという風に開き直ってはいけないんですよと、そのように親鸞聖人はお示し下さっているんです。凡夫というのは恥ずかしい存在なんだということに気づかないといけない。
どういうことかというと、女性であればパンティストッキングを履くと思うんですよね。その時に伝染していることに気づいたらどうでしょうか。そのまま大事なパーティとか催しに参加するという人はあまりいないと思います。伝染していることに気づいたら、予備のものに履き替えるのが常だと思うんです。男性陣であればズボンのチャックです。ズボンのチャックが空いていることに気づくまでは何にも恥ずかしくないです。でも開いていることに気づいたらどうかというと、「あ、あの人に会っている時も開いていたのかな」と思って恥ずかしくなりますよね。で、その後どうするか。そのままチャック全開で過ごすかと言うとそんな人はいませんよね。チャックが開いていることに気づいたら、恥ずかしいと思ってすぐチャックを上げます。つまり、凡夫という存在は恥ずかしい存在であるということを自覚することがとても大切なんです。そのままで良いんだと思わずに、少しでも今の生活を改めようとすることが、凡夫ということに気づかされた存在の生き方です。